Live and Think

A's not-so-secret diary

MENU

SNSをやめてみた

 

SNSをやめてみた



私のiPhoneの中には

 

Facebook

Instagram

Snapchat

 

のアプリが入っていたのだけれど

 

全部を消してみた。

 

 

 

私はInstagramのヘビーユーザーだった。

写真もよく投稿していたし

人のもよく見ていたし

ファッションの参考や

料理のレシピ

身の回りのあらゆることを

インスタで見ていた。

 

電車に乗ったり

待ち合わせ待っていたり

ちょっと暇があるとき

手持ち無沙汰なとき

無意識のうちに

インスタのアプリをタッチしていた

 

 

お洒落な人のアカウントを見ては

いいなぁオシャレだな

服欲しいなぁ

 

他の人の生活を覗いてみては

いいなぁこんな生活

優雅だなぁ

 

他の人の料理を見ては

いいなぁこんな料理

作れたら

 

友達の投稿を見ては

いいなぁディズニー行ってるよ

うわ日本食おいしそうだなぁ

いいなぁいつも彼氏といるじゃん

居酒屋行ってないなぁ

 

 

思った。

 

 

 

まるで今の自分に満足してないみたい

 

 

羨ましい

という感情は

あまり幸せなものじゃない

と気付いた

 

 

 

 

アプリを全部消してみた

 

 

アプリの代わりに

本を一冊買って読んでみた

 

アプリの代わりに

小麦粉買ってクッキー焼いてみた

 

アプリの代わりに

コーヒー買ってお散歩に出た

 

 

自分が今まで

どのくらい自分の時間を

人のこと見るために使っていたか

気付いた

いいなぁって思うために使っていたか

気付いた

 

お金かかっても

自分の為の楽しいことしたい

 

 

私のiphoneからは

もうしばらく

アプリが無い期間が続きそう

キレイの基準と人種

 

 

Beauty

 

 

 

 

 

 

 

 

ってなに?

 

 

 

やっぱり基準を教えて。

 

 

 

目が大きい方がいい。

鼻がすっきりしてる方がいい。

二重の方がいい。

唇がぷっくりしてる方がいい。

小顔の方がいい。

 

 

 

山ほど「方がいい」

聞くけど、

 

 

 

そして私もよく思うけど。

 

 

 

私たち日本人が

勝手に思ってるだけだと思ってた。

 

無いものねだり。

 

 

 

 

 

「日本人と中国人と韓国人の顔の違い、分かる?」

 

 

この前ドイツ人の友達に聞いた。

 

 

 

 

「うーん微妙だけど、でも基本的に日本人が一番目が細い気がする。」

 

 

 

 

「そりゃ嘘でしょ。失礼な。」

 

って心の中で思った私自身も

自分の中で美の基準というものが

傾いて出来上がってる証拠。

 

 

って後から気付いた。

 

 

 

 

 

そしたら彼女が言った。

 

「安心して。あいなは二重だし、ちょっと違うから!」

 

 

 

なぜか

私今フォローされた。

慰められた。

 

 

 

まるで細い目じゃだめみたいな言い方じゃないですか。

 

 

 

アジア人を美人というのは難しい?

 

 

 

だれが決めたの。

美人の基準。

 

 

顔が丸くても

小顔じゃなくても

鼻が大きくても

 

 

なんかいつもよりも

 

 

 

自分の顔が好きになった。

 

 

 

そう思った日。

 

 

 

 

 

 

だって

 

みんな美しいもん。

 

 

「アジア人」という自分

 

「こっちに来て人種差別とか遭ったりするの?」

 

先日東京から訪ねてきた友達が

と聞いてきた

 

「うーん、なにせニューヨークだからねぇ」

 

と最初は、そんな経験思い当たる節がないという私だったが

しばらく考えたので、ここで彼女達の質問に答えてみたい

 

(ロッカフェラー展望台からの景色)

 

オチから言うと、「ある」だ

 

人種のメルティングポットの観念から

人種のサラダボウルの価値観に

そしてカナダから来た新しい文化のモザイクという考え、、、

 

ニューヨークに短期間しか居なくても

ここは多文化、多言語、多人種の交差する街だと実感する

 

 

それでもあまり心地よくない経験をしたことがある

 

 

でも、あまり心地よくない経験をしましたという

体験談だけを語りたいわけではない

(こう豪語しながら以下まずは体験談を語る)

 

 

 

数ヶ月前にワシントンD.C.

アジア系の友達と観光に行ったときのこと

 

ワシントンD.C.行きのバスの乗車口で

白人系の運転手が

乗客名簿と乗客を照らし合わせていた

 

私と友達の番になって

「名字は?」というので

私は、自分の名字と友達の名字を言った

 

「Tanaka and Le」

 

 

「はぁ?」

 

と、なんか私間違えた事言ったかな?とこっちが思う程の

顔で聞き返してきた

 

「言ってる事分かってる?なー・まー・えー!」

 

と大きな声で言ってくるので

 

そんな大きな声ださなくても、と思いながら

「Tanaka and Le」

ともう一度言った。

 

自分の名前だし普段は聞き取れてもらえるのに。

 

 

「名簿に無いから乗れない」

 

と言うので

そんな訳ない、と思って名簿を覗き込むと

 

「見ないでもらっていいですか!」

とまた大きな声を出された

 

 

私達は一回列を外れて、

運転手は後ろの白人系の男の人を案内した。

「Can I have your last name, sir?」

「名字を伺ってもいいですか」

 

 

結局その運転手は私達の名前を見つけたので

予定通り乗る事が出来たのだけど

後ろの客に対しての接客の違いに、

正直な気持ち、不愉快になった

 

 

 

 

そしてこれまた

有名なロッカフェラーセンターに

登ったときの事

 

展望台に登るエレベーターに乗る直前、

私達の前に居た白人系の親子3世代の女性が

 

「エレベーターに私達が先に乗ると

エレベーターを降りるときに後ろの子達が先になって

抜かされるから、エレベーター先に乗ってもらおう

多分そうお願いしてもなんでなのか彼女達分からないと思うから」

 

と話していた

 

この人達は、その作戦が丸聞こえなのが分かっているのだろうか

一応私達は英語が理解出来るのだけれど、、、

 

案の定、エレベーターに乗る際に

「先に乗っていいよ」

と言われたが、

順番が変わる事よりも

彼女達の作戦に乗る事がなんとなく悔しかった私達は

「大丈夫です」

と、親子より先にエレベーターに乗るのを断った

 

 

この顔をしているだけで英語話者でないと

推測されてしまったのだろうか。

 

(Queens museumのNYCジオラマ

 

 

この体験を回想しているときに

ふと、社会学の授業で習ったことを思い出した

 

マルクス主義の考えの一つに

フランスのLuis Althusserが定義した

interpellationというアイディアがある

「個人」は社会のイデオロギーが作り上げているという考えだ

 

難しいけれど、

具体的な例としてAlthusserが提示しているのは

 

警官が、歩道で「おい!」と叫んだとして

ぴくっと反応して、その声に振り向いたその人は

自分が何かをした容疑者だと、自意識していることになるということ

 

自分よりも強い力関係のものや、大きなものに、

自分が何者かを定義されて、それを認めたときに

自分はその「何者」かになってしまうという考えらしい

 

同じ理由で、

レズビアンと呼ばれるのを拒んだレズビアンがいたみたいだ

レズビアン」というカテゴリーは

社会のレズビアンで無い人達が付けたカテゴリーで

自分は、その他人に区別されたグループには入らないと決めたらしい

 

 

だいぶ話がそれたが

自分にも当てはまる気がすると思った

 

「アジア人だから、英語が分からないと思われた」

「アジア人だから、違う態度をされた」

 

と思っていること自体が

自分で、

アジア人は「英語がわからない人が多い」

アジア人は「違う態度を受ける対象にある」

と、社会の中での立場を自意識しているということだ

 

もしかしたら

バスの運転手は

長時間の運転を前にイライラしていたのかも

ロッカフェラーの親子は

1秒でも早くその美しい景色を見たかっただけかも

(実際の話、

ロッカフェラーに登るという行為がまず

ローカル人の行為でないのは認める)

 

そして、このバスの運転手と親子も

ニューヨーク出身でない可能性も高い

だから、必ずしも「ニューヨークでの体験」

と言っていいのかは注意しなければいけないけれど

 

 

しかし向こうだって、

白人系だというだけで

いちいち相手に

「差別された」

と思われたら不愉快かもしれない

 

 

 

Which value of you do you think devalues you?

「自分を作り上げる要素の中で自分の価値を下げていると思う要素は?」

 

と、授業で先生がクラス皆に聞いたことがある

 

先生は、紙切れに匿名でその要素を書かせ、

それを集めて皆の前で読み上げた

 

難しい質問だ

 

背が低いことだろうか(自分の体に服を合わなくしている)

足だけ細い事だろうか(体型のバランスが悪く見える気がする)

 

と、くだらない事ばかり頭に巡った私だったが

 

興味深かったのが、

「白人であること」

という答えが多数あった事だ

 

名前を出して良いと言った生徒は、

理由を語っていた

 

「白人である」という要素を持っているだけで

少しの言動が、他の人達が同じ言動を起こすより

相手を傷つけたり、不愉快にさせてしまうことがあるから

 

私のルームメイトも

白人であることで自分自身が傷つくこともあると言っていた

 

「この前、ホームレスが物乞いをしていたときに、

前のヒスパニック系の家族がその人を通り過ぎて、

それでそのあとに続いて私が通り過ぎたときに

私にだけ『だから白人は嫌いなんだよ!』って叫んできたの」

 

「分かってるんだけどね、

自分達が社会でどんな立場なのかって自覚してるんだけどね、

白人であることで優勢って言われても理解出来るけど

良い事だけじゃないよ。

まっもはやニューヨークは白人が少数派みたいなもんだけど」

 

と笑っていたが

 

北米史で習ってきた「white = dominant/majority」という考え方

と正反対の状況に、

(もちろんニューヨークという地域が特殊なのは理解しているが)

新鮮な気持ちで彼女の話を聞いていた

 

 

黒人の人達が

「黒人であることを誇りに思う」

と言うと応援されるが

白人の人種が

「白人であることを誇りに思う」

と言うと反感を食らう

 

と、先日読んだ新聞記事に書かれていた

 

 

確かに、と頷けてしまう

 

 

 

「黒人であることを誇りに思うと言うと応援される」社会への変化は

前向きに受け止めることが出来る

 

 

「白人であることを誇りに思う言うと反感を食らう」社会に

嫌気がさした人達が、新しい大統領を選んだのかもしれない

と思うと

 

うーん、、難しい、、、

簡単に、私のルームメイトみたいな人を

「可哀想に、、元に戻るといいね」

なんてひとことを言えないのが本音だ。

 

 

 

 

 

ここまで書いて

なんて話がそれたのだろうと自覚している

 

 

 

 

あのバスの運転手と親子三世代も

「白人」という自分の要素が自分の価値を下げる

なんて思ってたりするのかしら。

 

 

 

 

こんな人種の話、日本にいたら見えない話だ

 

 

いや、見て見ぬふりをしているのかも

 

 

演劇とクレープな木曜夜

 

 

 

出会ってもうすぐ10年になる友達が居る

 

 

 

 

彼女は人生のほとんど

ずっと演劇をしてきて

今でも演者だ

 

 

 

 

昔彼女が言ったことをふと思い出した

 

 

 

 

「舞台ってさ

お客さんに払わせるのは

チケット代だけじゃないんだよ

 

劇場に来るまでの交通費と

そのあとにごはんでも食べよっかってなるかもしれない食費

帰り道寄り道でもしよっかってなるかもしれない費用

 

そういうものも全部

かかってるんだよね

 

だから

劇場に足を運ぶために腰をあげるその気持ちと

そのあとにごはんでも食べよっかってなる興奮

帰り道寄り道でもしよっかってなる余韻

 

そんな付加価値を

費やしてもよかったって思うそんな付加価値を

提供する役目が舞台にはあるんだよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日クイーンズで

演劇のワークショップを受けた

 

 

10年近くやってた演劇から離れて

3年も経つから

あるいは

3年しか経ってないのに

 

ワークショップの話を聞いた時

演技をすることが

恥ずかしいと思った

緊張するし怖いと思った

 

 

 

でもちょっと重たかったけど腰をあげて

稽古場まで行った

 

 

 

 

いろんなことをした

 

 

大きな声を出した

相手の目の奥を見て相手を感じた

いろんな感情を声に乗せてみた

空間を使ってエチュードをした

頭を柔らかくして

好きな事をした

表現してみた

 

 

 

 

 

すごく

すごく

懐かしかった

 

 

その空間が

本当に懐かしくて

 

 

ぽん、って後ろから

優しく肩をつかまれて

一回立ち止まって

浸ったら?

 

 

ってだれかに言われたような

(比喩表現もいいとこだけど)

 

 

でも本当にそんな優しい気持ちになった

 

 

心が柔軟体操したような

(比喩表現もいいとこだけど)

 

そんな感じ

心が健康になった気がした

 

 

 

 

 

 

 

私の最寄り駅に着くには

クイーンズから7番線に乗って

42丁目で乗り換える

 

 

 

 

家にそのまま帰るのはもったいない

そんな余韻に浸っていた

 

 

 

だから途中下車で寄り道して

ブライアントパークに行って

クリスマスシーズン限定で立ち並んでる

出店をゆっくり回った

 

 

 

なんか気持ちがうきうきしてお腹がすいてきた

美味しい甘いにおいがするから

歩いてみたら

クレープ屋さんがあった

 

肌寒い夜にあったかくてちょっと甘すぎなクレープは

すごく美味しかった

 

 

 

 

 

 

昔彼女が言ったことをふと思い出した

 

 

「劇場に足を運ぶために腰をあげるその気持ちと

そのあとにごはんでも食べよっかってなる興奮

帰り道寄り道でもしよっかってなる余韻

 

そういう付加価値を

提供する役目が舞台にはあるんだよね」

 

 

 

 

 

今日の私だ

と思った

 

 

 

稽古場に行って

42丁目で寄り道して

クレープを食べた

 

 

 

通販番組に乗っちゃったみたいに

「そういう付加価値」に

まんまと乗ってしまった

 

 

でもそのまんまと乗ってしまった自分に

いいのいいのたまには

と甘やかしたくなる

そんな気持ちになった

 

 

 

観客だけじゃなくて

演ずる側をも

 

 

そんな素敵な気持ちにする

 

 

 

舞台だけじゃなくて

演劇そのものに

そういう付加価値=力

があるのかもしれない

 

 

 

と思った

 

 

 

 

今一緒に留学してる友達と

 

演劇は人の心を平和にする

 

って話をした

 

 

 

本当に

そんな力があると

私は信じてる

 

 

 

 

 

 

「観客だけじゃなくて

演ずる側をも

そんな素敵な気持ちにする」

 

 

プロじゃないから

そんな呑気なことが言えるって自覚しているつもり

本気で稽古中のひとが

稽古帰りに寄り道してクレープ食べるとは思ってない

 

 

演劇の持っている力のひとつの例として

書きたかった

 

 

 

でもだからこそ

演劇人じゃないひとたちもみんな

もっと演劇を楽しめばいいのに

って思う

 

演劇に触れたあとには

綺麗な気持ちと余韻

(たまにおいしいごはん)

がついてくるのだから

 

 

 

 

 

っていう

クレープに9ドル払ったことを

演劇のせいにして自分を慰める

そんな今日

 

 

 

 いいのいいのたまには

 

タピオカから気づく異文化理解

 

 

 

 

 

 

私達が飲んでる

タピオカミルクティーを見て

 

 

スペイン人の友達が言った。

 

 

 

 

 

『え、、なにそれ、、きっっっっも!』

 

 

 

 

 

 

冗談じゃない顔だった。

本当に気持ち悪いという顔で言った。

 

 

 

 

 

 

傷つかなかった。

 

 

 

苛立もしなかった。

 

 

 

 

笑った。

 

 

 

 

 

 

この人達は

この美味しいものを知らないのだと。

 

しかもこんなに有名なバブルティーの存在を知らないのだと

 

 

それをバブルティーを飲んでる私達の方が

変みたいに言うから

 

 

 

 

 

 

笑った。

 

 

 

 

 

 

おかしな話だ。

 

きっとそのときにタピオカを飲んでいたのが

同じスペイン人だったら

 

あんな顔にはならないはずだ。

 

もしかしたら

「えーひとくちちょうだい。」

になってたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

私の仲良い友達は

ベトナム人の両親のもとで

ドイツで生まれて育った

 

 

自分の故郷はドイツだと思ってるけど

自分はどちらかというとベトナム人だと思ってる。

 

 

 

 

ある日彼女が、

韓国のお土産で買ってきたグミを

友達とシェアしようとしたらしい。

 

 

そしたら、友達に

「え何それ?」

と怪訝な顔で言われたので、

 

彼女は、

ハリボーと同じだよ」

(ドイツ名産)

と答えた。

 

 

 

友達は食べなかったらしい。

 

 

 

 

材料が一緒だと言っているのに

同じグミだと言っているのに

なぜ韓国のものには手をつけないのか

理解出来なかった

彼女は言っていた。

 

 

 

 

面白い話。

 

 

 

 

私の社会学

教科書にも書いてあった。

(この社会学の教科書はかなりの難ありだから

今度また書きたい)

 

 

 

世界中には、

私達はびっくりするようなものを

食べる国があるのだ

と、

 

だから私達は

そういう人達もいるってことを

ちゃんと理解しなければいけない。

自民族中心主義になってはいけない。

と。

 

 

 

「中国では犬を食べる地域があって

日本の珍味はタラの精子なのだ。」

 

と、書いてあった。

 

 

 

このとき初めて白子の正体を知った私だったけど、

 

そんな風に書かれたらすごい民族に聞こえる。

 

 

 

 

「自民族中心主義になってはいけない」

と書いてるけど、

「私達」=「アメリカ人」の

まったく自民族中心的な文章だと思った。

 

 

 

からしたら

こんなちっちゃっなクッキーが300キロカロリーしてたり

まっピンクのソーダ飲んでる人が歩いてるほうが

よっぽど怖い。笑

 

 

 

 

 

 

アジア人

のレッテルはどんな感じなんだろうか

 

私達は

いったいどんな風に見えてるんだろうか

 

 



でも少なくてもここニューヨークでは

 

とくに

人種のサラダボウルとか

パッチワークの社会だからかも知れないけど

そんな不愉快な気持ちにはなることは少ないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

タピオカの話に戻る。

 

 

 

2つ前のブログでも書いたように

 

「きもい」と言ったこの人達は

「おいしい」に限界を作っているんだ。

 

自分達の慣れ親しんだものしか美味しくないんだ。

 

と思った。

 

 

あぁ私は私で良かった。

 

いろんな料理を美味しいと思える(しいたけ以外)

そんな脳を持ってて良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

と、ここまで批評が書けるってことは

実は苛立ってた証拠だね。

 

New York, Manhattan「3ドルのカフェラテ」

 

コーヒー好きな私は

(もはや好きを通り越して依存なのではと心配になる)

 

ニューヨークで

コーヒーショップを30店鋪開拓する

 

という小さな目標をあげたので

最近は行きたいカフェを見つけては行っている

 

 

 

 

この前のこと

 

近所で見つけた小さなカフェで

窓際のカウンターに座ってコーヒーを飲んでいたら

中年の女性が座ってきた

 

ペーパーカップのコーヒーを右手に持って

左手に持つ小さな紙の袋から大きなクッキーがすこし出ていて

ちょっとかじったり

それがたまに置いてあるIphoneに変わって

ちょっといじったり

そんな感じで朝食をたべていた

 

 

 

なんでこんなにクリアに彼女の行動が見えたかというと

私の右手に座る彼女が

なんとなくこっち向きに(左を向いて)座っていたから

 

 

別に私のことを見ていたわけではなく

ただ適当に座った結果ちょっと体がこっち向いてる

そんな感じで軽く腰掛けただけだった

 

もしくは私達の左側にお店のドアがあったから

食べ終わったら早く出なきゃという気持ちがあったのかもしれない

 

 

いずれにせよ

カウンターのスツール椅子には軽く腰掛けて

窓際に座っているのに

窓は見ていなかった

 

 

その女性はぱぱっと朝食を済ませて

お店を出て行った

 

 

 

しばらくしてから

 

 

 

中年のカップル(もしくは夫婦)が

私の隣の席に来た


レジで注文するスタイルだったから

男性が先に席を取って

女性が二人分注文しにいった


しばらくして女性が

マグカップに入ったカフェラテを両手にもって

テーブルにもどってきた。



「まだマフィンがもうちょっと時間かかるって」

と女性は男性に言って



しばらくしてから

トーストされたマフィンが二つ

それぞれお皿に乗ってきた



二人はカウンター椅子に深く腰掛けて

窓の外をみながら

マグカップのカフェラテをゆっくり飲み

マフィンをフォークで食べていた

 

 

小さなお店の小さな食べ物でも

3ドルのカフェラテでも

ちょっと贅沢してるみたいに食べてしまう


そんな二人を見ていて

とっても心が豊かになった気がした

同じ3ドルだったらそんな風に費やしたい



自分は毎回の食事をどう過ごしているだろうか

私は最初に出てきた女性に近いかもしれない

 

少し早起きしてゆっくりな朝を過ごしていたら

クッキーをあっためてもらってお皿にのせてもらって

チョコチップがとろんととけて


携帯をいじっていて味に集中していなかったクッキーは

もしかしたらびっくりするくらい美味しいものだったかも




小さな贅沢を逃してたかもしれない

小さい幸せを逃していたかも


お店の雰囲気が優雅な訳でも

食べているものが優雅な訳でもないけど

その短い時間の二人の過ごし方はとても優雅だった




 



よし見習おう



東京から遊びにきた友達が

私の大好物の羊羹を買ってきてくれた

コンビニのレジ前にある90円程の

かじって食べる羊羹

あれを5つくらい買ってきてくれた



今日はその5cm×2cmくらいの羊羹を

全部パッケージから出してみた

でお皿の上に置いて

フォークで食べた

(さすがに黒文字はないので)



どうせだから

暖かい緑茶も入れた




うん

おいしい



なんかちょっといつもより美味しい


ちょっと贅沢な気分




この幸せは

おかしのまちおかの羊羹のおかげでもあるし

それを優雅に食べた自分自身のおかげでもある




いずれにしても

なんてお金のかからない贅沢なの





んーでも

おいし

New York, Queens「世界で一番人種の多様な街」

 

どうやら私は

世界で最も多くの言語が

話されている街に住んでいるらしい。

 

 

 

今、ニューヨーク市の中の

クイーンズという街に住んでいる

大学の寮が予算越えだったので

残りの半年違うとこに住むのも悪くないと

引っ越した

 

 

 

クイーンズ区は

ニューヨーク市の5つの区の一つで

イーストリバーを挟んでマンハッタンの東側にある

一応ブルックリンに続いて「きてる」街

と言われている

けどモダンで綺麗なわけでもなく

なんともあか抜けない素朴な街だ

でも私はこの街がすごく好き

 

 

 

 

 

私が使う7番線の電車も

運転本数が時間帯によって全然違ったり

走行がすごく遅かったりする

 

大抵「あと10分で電車が来ます」っていう

駅のアナウンスの直後に電車が来る

 

 

 

 

そんな不便な7番線の何が好きって

クイーンズを入ると電車が地下から地上に上がる瞬間だ

 

 

 

時間によって空がピンクだったり

オレンジだったり紫だったり

綺麗に青く澄んでるときもあるし

それをバックにマンハッタンのビル群が

本当に綺麗に見える

日が暮れてからは

私にとって無料の夜景スポット

 

 

景色が見たいから

朝学校に行く時は進行方向右側のドア

帰宅する時は左側のドアが私のスポット

 

 

 

写真では伝わらないものね

 

 

 

 

自分の家の最寄り駅を降りると

24時間スーパーがあって

迎えには韓国系のパン屋さん

その隣のタイ料理屋さんを通って

ペルー料理のレストランの角を曲がる

トルコ料理を売るワゴン車を通り過ぎたら

中国系の店主が経営するお土産屋があって

コロンビア料理のバーを通る

小さなデリ

こじんまりしたお花屋さん

うすぐらーいコインランドリーが並んでて

地元のニューヨークピザ屋の前の横断歩道を渡って

メキシカンタコスのお店や

イタリアン人が経営する99セントストアを横目に見て

家につく

 

 

そう

クイーンズ区は

世界で一番人種の多様な街の1つなのだ

 

 

 

住む住民は

白人系が48.7パーセント

アフリカ系アメリカ人が20.6パーセント

アジア人が26.3パーセント

ヒスパニック、ラテン系が28.0パーセント

人種混合3パーセント

原住民系1.3パーセント

ハワイ・太平洋系0.2パーセント

(NYC census bureau 2015)

 

人口の過半数を上回る人種がいない

 

 

 

48パーセントの住民が外国生まれで

56パーセントの住民が家では英語以外の言語で話す

 

 

 

 

 

 

「クイーンズ区は世界のどの市よりも

色んな種類の言語が話されている」

 

少なくても138カ国語が話されてるらしい

 

 

 

138?

 

 

頭で思い浮かべようとしても

その数の言語なんて浮かばない

 

 

 

 

クイーンズで使われている言語を調べてみた

 

英語

スペイン語ロシア語イタリア語(シチリア語、トスカーナ語)中国語(普通語、広東語、上海語、四川語、、etc)ヒンドゥートルコ語韓国語日本語ギリシャスウェーデンタガログ語モンゴル語ハンガリー語ブルガリアフィンランドラトビアチベット語ベトナム語インドネシア語ルーマニア語ノルウェーデンマークタイ語ウルドゥ語ボスニアベンガル語フランス語ネパール語マレーシア語

 

 

と、全部は挙げられなくても

とりあえずこんな感じみたい

 

 

 

 

 

確かに

電車に乗っていても

英語以外の言語がたくさん聞こえてくる

たっくさん聞こえてくる

 

 

 

 

笑ってたり

真面目な話してそうだったり

ちょっと怒ってそうだったり

涙ぐんでる人もいたな

マネキン担いで電話越しに話してたり

この前はキッチンペーパーのロール片手に話してるひとも居た

 

 

 

なに話してるかは全然分からないし

何語なのかも分からないときさえあるけど

 

いまどんな事話してるんだろ

誰と話してるんだろう

アパレル系の人なのかな

どういう話してたらキッチンペーパー必要なのかな

 

なんて想像して

 

 

 

そうすると

その人達の生活ちょっと覗いてる気分になる

 

一人一人に生活があって

ここ生まれで英語と二カ国語使う人なのかもしれないし

移民してきたのかもしれないし

旅行者かも

私みたいに留学生かも

 

でも

日々もまれながら

一生懸命生きてるんだろうな

って

そんなエネルギーをもらえる

 

 

 

それも私が

クイーンズが好きな理由のひとつ