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A's not-so-secret diary

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「アジア人」という自分

 

「こっちに来て人種差別とか遭ったりするの?」

 

先日東京から訪ねてきた友達が

と聞いてきた

 

「うーん、なにせニューヨークだからねぇ」

 

と最初は、そんな経験思い当たる節がないという私だったが

しばらく考えたので、ここで彼女達の質問に答えてみたい

 

(ロッカフェラー展望台からの景色)

 

オチから言うと、「ある」だ

 

人種のメルティングポットの観念から

人種のサラダボウルの価値観に

そしてカナダから来た新しい文化のモザイクという考え、、、

 

ニューヨークに短期間しか居なくても

ここは多文化、多言語、多人種の交差する街だと実感する

 

 

それでもあまり心地よくない経験をしたことがある

 

 

でも、あまり心地よくない経験をしましたという

体験談だけを語りたいわけではない

(こう豪語しながら以下まずは体験談を語る)

 

 

 

数ヶ月前にワシントンD.C.

アジア系の友達と観光に行ったときのこと

 

ワシントンD.C.行きのバスの乗車口で

白人系の運転手が

乗客名簿と乗客を照らし合わせていた

 

私と友達の番になって

「名字は?」というので

私は、自分の名字と友達の名字を言った

 

「Tanaka and Le」

 

 

「はぁ?」

 

と、なんか私間違えた事言ったかな?とこっちが思う程の

顔で聞き返してきた

 

「言ってる事分かってる?なー・まー・えー!」

 

と大きな声で言ってくるので

 

そんな大きな声ださなくても、と思いながら

「Tanaka and Le」

ともう一度言った。

 

自分の名前だし普段は聞き取れてもらえるのに。

 

 

「名簿に無いから乗れない」

 

と言うので

そんな訳ない、と思って名簿を覗き込むと

 

「見ないでもらっていいですか!」

とまた大きな声を出された

 

 

私達は一回列を外れて、

運転手は後ろの白人系の男の人を案内した。

「Can I have your last name, sir?」

「名字を伺ってもいいですか」

 

 

結局その運転手は私達の名前を見つけたので

予定通り乗る事が出来たのだけど

後ろの客に対しての接客の違いに、

正直な気持ち、不愉快になった

 

 

 

 

そしてこれまた

有名なロッカフェラーセンターに

登ったときの事

 

展望台に登るエレベーターに乗る直前、

私達の前に居た白人系の親子3世代の女性が

 

「エレベーターに私達が先に乗ると

エレベーターを降りるときに後ろの子達が先になって

抜かされるから、エレベーター先に乗ってもらおう

多分そうお願いしてもなんでなのか彼女達分からないと思うから」

 

と話していた

 

この人達は、その作戦が丸聞こえなのが分かっているのだろうか

一応私達は英語が理解出来るのだけれど、、、

 

案の定、エレベーターに乗る際に

「先に乗っていいよ」

と言われたが、

順番が変わる事よりも

彼女達の作戦に乗る事がなんとなく悔しかった私達は

「大丈夫です」

と、親子より先にエレベーターに乗るのを断った

 

 

この顔をしているだけで英語話者でないと

推測されてしまったのだろうか。

 

(Queens museumのNYCジオラマ

 

 

この体験を回想しているときに

ふと、社会学の授業で習ったことを思い出した

 

マルクス主義の考えの一つに

フランスのLuis Althusserが定義した

interpellationというアイディアがある

「個人」は社会のイデオロギーが作り上げているという考えだ

 

難しいけれど、

具体的な例としてAlthusserが提示しているのは

 

警官が、歩道で「おい!」と叫んだとして

ぴくっと反応して、その声に振り向いたその人は

自分が何かをした容疑者だと、自意識していることになるということ

 

自分よりも強い力関係のものや、大きなものに、

自分が何者かを定義されて、それを認めたときに

自分はその「何者」かになってしまうという考えらしい

 

同じ理由で、

レズビアンと呼ばれるのを拒んだレズビアンがいたみたいだ

レズビアン」というカテゴリーは

社会のレズビアンで無い人達が付けたカテゴリーで

自分は、その他人に区別されたグループには入らないと決めたらしい

 

 

だいぶ話がそれたが

自分にも当てはまる気がすると思った

 

「アジア人だから、英語が分からないと思われた」

「アジア人だから、違う態度をされた」

 

と思っていること自体が

自分で、

アジア人は「英語がわからない人が多い」

アジア人は「違う態度を受ける対象にある」

と、社会の中での立場を自意識しているということだ

 

もしかしたら

バスの運転手は

長時間の運転を前にイライラしていたのかも

ロッカフェラーの親子は

1秒でも早くその美しい景色を見たかっただけかも

(実際の話、

ロッカフェラーに登るという行為がまず

ローカル人の行為でないのは認める)

 

そして、このバスの運転手と親子も

ニューヨーク出身でない可能性も高い

だから、必ずしも「ニューヨークでの体験」

と言っていいのかは注意しなければいけないけれど

 

 

しかし向こうだって、

白人系だというだけで

いちいち相手に

「差別された」

と思われたら不愉快かもしれない

 

 

 

Which value of you do you think devalues you?

「自分を作り上げる要素の中で自分の価値を下げていると思う要素は?」

 

と、授業で先生がクラス皆に聞いたことがある

 

先生は、紙切れに匿名でその要素を書かせ、

それを集めて皆の前で読み上げた

 

難しい質問だ

 

背が低いことだろうか(自分の体に服を合わなくしている)

足だけ細い事だろうか(体型のバランスが悪く見える気がする)

 

と、くだらない事ばかり頭に巡った私だったが

 

興味深かったのが、

「白人であること」

という答えが多数あった事だ

 

名前を出して良いと言った生徒は、

理由を語っていた

 

「白人である」という要素を持っているだけで

少しの言動が、他の人達が同じ言動を起こすより

相手を傷つけたり、不愉快にさせてしまうことがあるから

 

私のルームメイトも

白人であることで自分自身が傷つくこともあると言っていた

 

「この前、ホームレスが物乞いをしていたときに、

前のヒスパニック系の家族がその人を通り過ぎて、

それでそのあとに続いて私が通り過ぎたときに

私にだけ『だから白人は嫌いなんだよ!』って叫んできたの」

 

「分かってるんだけどね、

自分達が社会でどんな立場なのかって自覚してるんだけどね、

白人であることで優勢って言われても理解出来るけど

良い事だけじゃないよ。

まっもはやニューヨークは白人が少数派みたいなもんだけど」

 

と笑っていたが

 

北米史で習ってきた「white = dominant/majority」という考え方

と正反対の状況に、

(もちろんニューヨークという地域が特殊なのは理解しているが)

新鮮な気持ちで彼女の話を聞いていた

 

 

黒人の人達が

「黒人であることを誇りに思う」

と言うと応援されるが

白人の人種が

「白人であることを誇りに思う」

と言うと反感を食らう

 

と、先日読んだ新聞記事に書かれていた

 

 

確かに、と頷けてしまう

 

 

 

「黒人であることを誇りに思うと言うと応援される」社会への変化は

前向きに受け止めることが出来る

 

 

「白人であることを誇りに思う言うと反感を食らう」社会に

嫌気がさした人達が、新しい大統領を選んだのかもしれない

と思うと

 

うーん、、難しい、、、

簡単に、私のルームメイトみたいな人を

「可哀想に、、元に戻るといいね」

なんてひとことを言えないのが本音だ。

 

 

 

 

 

ここまで書いて

なんて話がそれたのだろうと自覚している

 

 

 

 

あのバスの運転手と親子三世代も

「白人」という自分の要素が自分の価値を下げる

なんて思ってたりするのかしら。

 

 

 

 

こんな人種の話、日本にいたら見えない話だ

 

 

いや、見て見ぬふりをしているのかも