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A's not-so-secret diary

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私が考える「学問の世界」

 

 

 

 

最近はとうとう就活をする身になってしまって、

腕を通すのを避けて通ってきたあのスーツを着ながら

考えることも多いけれど



考えてしまうことも

今しか出来ないことと思って

ひとつの愉しみにすることにした。

 

 



これは就活を経験したひとは

誰もが思うことかもしれないけれど、



街を歩くたびにどこかのコーヒーのCMみたいに

この世界は本当に誰かの仕事で出来てるんだって実感する。

 

 

 

朝通るマツモトキヨシには

開店前にレジ開けてる店員さんがいて

搬入する人がいて、

開けてるレジも

搬入してるダンボールも

その中に入ってる商品も

商品のデザインも、、

 

ってキリがないけど全て

作ってる、造ってる、創ってる人がいると思うと、

なんだか、コンクリートの道路でさえ

踏みしめて歩かなきゃと思ってしまう。

 

 

どれもどれも

なくてはいけない

重大な役割を持っている

お仕事なのだなと

身を持って実感する。

 

必要とされるものだし、

必要とされるから存在するお仕事なのだし

 

 

需要と供給のバランスは

この社会のどこにでも必要で

需要のあることを供給するのは

当たり前のことで、

 

需要を考えることが出来たら

必要としてる誰かを想って

それに応えたいと思ったら

それを仕事にするものなのかもしれない。

 

 

当たり前のことなのかもしれないけど

改めて考えた。

 

 

 

 

 

必要としてる人が目の前にいることを知っていて

供給をすることはとっても大切で、

 

 

 

でも、

直接は見えないけど

これを必要とする人がきっと絶対にどこかにいる

って思いながら自分の役割を見つけて

供給をしようとする信念を持つことも、

一つのケースなのかもしれない。

 

 

 

役割

 

 

 

 

大学院の中にいる自分の役割を考えてみた。

自分にとってはだいぶツボで

とっても楽しい大学院だけど

 

社会の中での自分の役割は一体何か

少し考えてみた。




 

大学院なんかで研究をしてると

日々そう思う。

自分の考えてることが

研究してることが

長い目で見ていつでもいいから

いつの日か

絶対に役に立つ。

 

 

って思ってないと

正直やってられないようなとこもある。

 



自分が熱を持ってやってることで

やっててすごく楽しいこと。

 

でも他人から見たらちいさなことで

何でもないんだななんて

そんなことを思い始めたらめげそうだ。



大学だったり

大学院だったりは

社会からは切り離されてる場所。



だから、そこにいるだけじゃ

需要を肌では感じられない。

 

あっち側の世界で

良かったって思う人がどうかいてほしい。

必要とする人がいてほしい。





ふと、

この前小説を読んでいた時に

言葉をみながら

小説のすごさを実感してた。

 

なにがすごいって

当たり前のことかもしれないけど、

全部が文字で書いてあることだ。




ふとした瞬間なぜか思いに耽りたい気分になったり

急になんだかやる気が出てきたり

ぱって嗅いだ匂いがなぜか懐かしかったり

急に見えた景色にあああって思ったり

そういうよく分からない

感覚みたいなふわふわしたものを

 

文字に書いて

可視化して具体化してること

それがすごいと思った。




もやもやっとしたものに

枠をつけている感じ。




なんだかそれが

大学とか大学院とか

研究する人達がやることと

似てるんじゃないかと思った。



経験はしたことあるけど、

なんか感じたことはあるけど、

でもこれがなんなのかは分からない、

みたいなものに

文字とか数字を与えて

名付けちゃったりもして。



それってこういうもの

なんですよ。

っていうところ。



モヤモヤしたものに

定義をつけるところ

なんじゃないかと思ったりする。



いや、もやもやしたままで

面白いじゃないかって言われたら

それはそうなのかも知れないけれど。




例えば

お醤油の香りだって

それがお醤油の香りだって

誰も言ってくれなかったら

くんくん、なんか香る、、

で終わっちゃうかもしれないけど

それがお醤油の香りだって

定義付けしてもらえただけで

急になんだか幸せな香りになる。



おこげだって、

おこげなんていう概念が世の中になかったら

わざわざおしゃもじでごはんの底を

ちらって見ようなんて思わない。

でも、おこげって名付けてあげるだけで

ごはんがお釜に接してちょっと焦げた部分が

急に贅沢な気分にしてくれる。



(なんかもうちょっと可愛い例が

見つからなかったのかなって残念だけど。)



私だったらそれが例えば

英語になるわけで。



英語って今の世の中大事だと思う、

いや、日本に居たら普通にいらなくない?

英語ってアメリカとイギリス人が話すやつ?

いや、私たちも話すことない?

待って、めっちゃ発音アメリカンやんかっこよ

えっそうかな、かっこいいとかあるの?

とか、みんなみんな英語のこと

いろんな風に考えてて、

 

それはみんなが色んな

「言語意識」を持ってることと一緒って思ったら

 

おお

これは、意識なのか!って、

みんなただ受け身になって

英語を受け入れてるんじゃなくて、

しっかり能動的に意識を持って言語に向き合ってる

すごいことな気がしてくる。

 

文法を文法書の答え通り並べたり

人称を教科書の例文通り使えたり

発音が付属のCDみたいに話せたり

それが出来ても

なぜかそれを実際の場面で使えない人がいる。

逆にそれが出来なくても

なぜかお友達が出来る人がいる。

前者に「言語能力」

後者に「言語運用力」

って付いてたら、

 

何かが出来る出来ないって

引き算で考えるんじゃなくて、

どちらかの力がどちかよりも長けてるって

足し算に考えれる気がしてくる。




そんな風に

 

目に見えないものを

見えるようにしてみたり、

説明できないものを

説明できるようにしてみたり、



元々そこにあることを知ってはいたけれど、

見えなかったものが

はっきり見えるようになったら

 

その分頭の中で新しい概念が足される。

で新しい概念を知れたら

その分世界が広がった気がする。

 

でその広がった世界から

また次の他の世界に繋がったりする。



ごはんがお釜に接してちょっと焦げた部分が

「おこげ」って知ったら、

ちょっと贅沢な気分になって

そしたらそのちょっと贅沢な気分にお家でもなるために

「おこげの簡単作り方レシピ」が

インターネット上で出てきて、

「おこげが出来る炊飯器」が

家電市場に出てくる。



こんな具合にほかの全然関係なかったはずの世界にも

色々つながっていく。



なんだか一周回ってまた

需要と供給の話に繋がりそうだ。




そんな感じで

少しでも

私たちが、ふーんとただ見てる人生の一部を

しっかり見えるようにして

そしたら

面白いスパイスになるかな。






そんな風に役に立ててたらいいな




 

かましくも

思っています。






こっち側の世界より。