Live and Think

A's not-so-secret diary

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「いいなぁ」について

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「いいなぁ」

 

という一言。

 

 「なぁ」に強さが置かれた

羨ましい時に使う「いいなぁ」

  

 

この一言について少し考えてみた。

 

 

なぜ考えてみたかというと

よく私が言われるからだ。

  

 

いつ言われるかというと、

  

私が「今大学院に行っている」

と言うときだ。

  

 

大学院の友人が私に言った。

「私、自分が『大学院に行ってる』と言うと、

友達から『いいなぁ』と言われるのに無性に腹が立つ」

  

 

どうやら「いいなぁ」と言われるのは

私だけではないらしい。

 

 

私は別に腹は立たない。

 

 

でも「いいなぁ」という一言を言われる度、

それがどちらの「いいなぁ」なのか、

区別することはできる。

  

一つ目の「いいなぁ」は、

「いいなぁ、私も実はもっと知りたいことがあるの。

自分でそれを探ってみたいの。」

 

二つ目の「いいなぁ」は、

「いいなぁ、私も学生に戻りたい。」

 

 

ほとんどの「いいなぁ」は

後者の「いいなぁ」だ。

別に直接的に「いいなぁ」の後に続く言葉を言わずとも

 

前後の会話や

その相手の人となりや物事に対する考え方で

どちらの「いいなぁ」なのかは分かる。

 

 

どちらの「いいなぁ」も本気で

私のことを羨ましがってくれているのは

ひしひしと伝わる(特に後者)。

 

 

 

前者の「いいなぁ」は

学んでいることを羨ましがってくれていて

後者の「いいなぁ」は

働いていないことを羨ましがってくれている。

 

 

羨ましがるポイントがどこだって

それは個人のことなのでなんでも良いけれど

その全然違う「いいなぁ」の差は

聞いただけですぐ分かる。

 

 

 

先ほどの私の大学院の友人が腹立ってしまったのは多分、

後者の「いいなぁ」を言われてしまったからだ。

 

 

 

彼女の気持ちがスッキリするほど彼女の代弁をしてあげると、

 

「そう言うなら、やったら?」

 

 

と、言いたいところ。

 

 

(彼女だけ悪者にしてしまいたくないので

これは私の心の声でもある。と書いておく)

 

 

 

もちろん

大学時代は皆がみな遊び明かしていた訳じゃないし、

そもそも大学の時に遊ぶことの何がだめなのかも分からない。

 

 

私自身も大学時代は、本当に何も考えずに

流れるように授業に行って、友達と会って、サークルして、バイトしていた。

 

 

自分もそうだったからこそ、今思うのだ。

 

「大学院はあなたたちの大学時代みたいに遊ぶ場所じゃない」

 

そう思って、腹が立ってしまうのだ。

  

 

小さな一言にへそを曲げて、楯突いているように聞こえてもいい

正社員として働いていないことに対して悪あがきしているように聞こえてもいい

 

とどのつまり、

 

大学と大学院を同じような場所とは

あまり考えて欲しくない。

 

と思ってしまうのだ。

 

 

 

ふと

逆のことを考えてみた。

 

私は、今会社で働いている友人達に対して、

「いいなぁ」と言おうとは思わない。

 

 

なぜならその仕事がとても大変なことが分かるし

(そこに居ないから分からないけれど想像するだけでも。)

 

そしてそもそも、みんなの肩には、

私が2年間経験したこととは全く種類の異なる負荷がかかっているはずで、

それを今は受けて立とうと思わない。

自分の領域とは全然違う、手に届かないことをしているかもしれないし、

 

もはや「いいなぁ」もなにも、

そんな言葉は出てこない。

 

 

だから、

簡単に放された「いいなぁ」という言葉の中には、

 

なんとなく

 

「私にだってできる」という

(別に思ってもないことだと思うけれど)

見えない心の気持ちが覗いてしまうのだ。

 

言われた相手を思いやる、尊敬する、

そういう心が見えないのだ。

 

 

自分がいる領域はもう疲れたから、

手が届くあなたの領域に自分は行きたい。

もはや、逃げたい。

 

 

と、そんな風に

聞こえるときがあったりするのだ。

 

 

 もう一度強調しておくけれど、もちろん、

「いいなぁ」と言う全員がそう聞こえるわけではない。

簡単に放された「いいなぁ」だけだ。

 

 

「いいなぁ」という言葉はとても難しい。

褒めているように聞こえて

褒めているときと褒めてないときがあったりする。

 

 

私も今まで幾度も、二つ目の「いいなぁ」を

簡単に、適当に言ってきてしまったかもしれない。

これからは「いいなぁ」というとき一息吸って考えようと思う。

 

 

なんだかこれだと大学院が随分苦しいところに聞こえるけれど、、

(これは、また今度書きたいけれど)

 

大学院は、確かに、正直とても大変で、

それでもなぜか本当に楽しくて、

自分を大きくしてくれるところなのだと思った。

(でもそれは大学院に限ったことでなくて、

どこの環境でもそういう人はそうなはず) 

 

 

 

これを読んでしまった友達が、

もう二度と私に「いいなぁ」と言ってくれないのではないかと、

どきどきしてきた。

 

 

 

みんな、

 

 

私ね、

この1月にニューヨークに行ったんだ。

それで2月は伊香保温泉に行って、

3月はベトナムに行くんだ。

 

 

 

いいんだよ、言ってくれても、一言。

 

 

 

 

フェミニズムと、ことば

 

ファミリーマートのおかず「おかあさん食堂」シリーズは、

なぜ「おかあさん」なのか。

 

 

この間(といっても2か月以上前)、友人がモデレーターを務めるフェミニズムトークイベントに行った時に

グループディスカッションの議題として出された質問。

 

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議論の内容は後に置いておいて。

 

正直にいうと、そんなこと考えたこともなかった。

日常的に目に入ってくる、気づかぬうちにそこにあるものに、

「なぜ」を投じたことがなかった。

 

思えば、留学先での授業でフェミニズムのことを学んだこともあったし、

大学ではアメリカ女性史学のゼミに入っていたので、

女性解放運動の論文なんかもすごく読んだ。

 

それなのになんとなく、

フェミニズムというと、少し遠い存在で、

歴史の中の一つの出来事というか、

現在も活動家の人たちが大きく引っ張っている印象だったから。

 

すごく力の強い、時には少し過激で、

女性の平等を求めるその力強さが、

ときどき女性だけを優先させることを求めているように映ってしまうような。

 

もちろん自分も女性として、お仕事も女性の人生も充実させたいなとか

いろいろ考えるかもしれないけど、

それでもフェミニズムと自分はちょっと遠い存在な気がしていた。

 

だから、フェミニズムがテーマのトークセッションに行って

ファミリーマートの「おかあさん食堂」が出てきた時は

そっか、こんな身近なことがフェミニズムの題材になるのかと

少しびっくりしたし、

こんな身近なところにもフェミニズムの題材はあるのかと

フェミニズムについてもう一度考え直す機会になった。

 

フェミニズム」と一言で言っても、

それは多様な角度から、多様な度合いで

考えることができるのだなと気づかせてもらった、

今日はそんなお話。

 

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話はすこし戻って、

必ずしもお料理をするのが「おかあさん」ではない人もいれば、

「おかあさん」が最初からお家にいない人もいるのに、

なぜ「おかあさん食堂」でなければならないのか。

 

 

結論からいうと、私はこの疑問にすぐに異論をとなえた。

この場合の「おかあさん」は、個人の、誰かの「おかあさん」よりも、

一般的に、「おかあさん」っていうことばを、

買う人に何か共通のイメージを想像させるための手段として使っていると思ったからだ。

 

昔々ソシュールっていう言語学者が、ことばを、記号(signifier)と意味(signified)に分けた。

例えば「イス」っていう言葉は、

本来なら、イとスっていう音の記号(signifier)が並んでるだけだけど、

私たちが「座るもの」っていう意味(signified)をつけてる。

そしてその「イス」=「座るもの」で想像できるものは、

つ脚の背もたれのあるものだったり、

事務イスだったり、ソファ椅子だったり、

記号が示すものは、その時々、文脈によって

様々なカタチになる。

 

「おかあさん」も一緒で、その音が指すものって

私の自分のママである「おかあさん」であったり、

髪を結って、割烹着を着ていて、ごはんを釜炊きしてる「おかあさん」像であったりする。

もちろん私の「おかあさん」のそんな姿をみたことはないけど、

そういう「おかあさん」はなぜか想像ができる。

 

後者の「おかあさん」のイメージのおかげで、

「おかあさん食堂」という名前だけでなんだかメニューが想像できてしまう気がする。

かぼちゃの煮付けだったり、金平ごぼうだったり、鯖の味噌煮だったり、、、。

自分の「おかあさん」がそのメニューを毎日作るかは別にして、なぜか「おかあさん」のメニューが想像できてしまう。

 

そういえば、近所の居酒屋さんは、

甘い「おかあさんの玉子焼」と

だし風味の「おとうさんの玉子焼」と

違う名前のついた2品がある。

これも「おかあさん」と「おとうさん」から想起される

イメージなのだとおもう。

 

ということが色々頭を巡って、

だから必ずしも「おかあさん食堂」という言葉が

問題のある言葉でないとも思った。

(でもそれを聞いて傷つく人ももちろんいるかもしれないので難しいところだけれど。)

 

もちろん、だからといって私は、「フェミニズム」を反対してるわけでは決してない。

女性の平等に興味を持っていなければそれを専攻としていない

例えば最近起きた#kutoo運動も、

「女性がオフィスでヒールを履かなければいけないのは苦痛(kutoo)だ。」

という女性もいれば、実際に話を聞いてみると、

「オフィスではお洒落したいから、気持ちが引き締まるから、ヒールで。」

という女性もいた。

もちろんだからといって後者の女性たちは、フェミストじゃないわけじゃない。

賛成できるときもあれば、

賛成する必要ないと判断するときもあるというだけ。

 

女性の力強さ・解放を追求することも、

女性ならではの愉しみ方を愉しむことも、

これもどちらもフェミニズム

 

 

女性の側になって、

無視できない問題はまだあると思う。

大都市ではもう聞かないような事でも、

地方を見たら就活でさえ「女性だから」上手くいかない話も聞く。

旦那さんが色々手伝ってくれる気配がないと嘆く人も聞く。

 

反対に男性の側になっても問題はある。

(トークセッションで男性方がお話していたけれど)

今の時代、女性は「仕事一本」、「専業主婦」、「仕事と家庭の両立」、、、色々と道があるけれど、

男性はまだなんとなく仕事を重視しておいたほうがというイメージもある。

会社のエリア転勤が認められるのも女性社員が多いという話もあった。

 

女性の過ごしやすい社会を考えることも、

そして男性の過ごしやすい社会を考えることも、

これもどちらもフェミニズム

 

 

 

「おかあさん食堂」から

ずいぶんと色々考えさせてもらった。

「おかあさん」というただ記号のはずなのに、

いろんなことを示唆している。

 

それで、フェミニズムの話のはずなのに、

なぜ「ことば」の話になってしまったかというと、

単純に自分が「ことば」から考える頭しかなかったからかも。

 

その言い方はなんだか悲しいので、

逆手に取って、

 

自分らしい、自分が考えられる角度から

フェミニズムについて考えた。

 

という方が、良い言い方。

 

でも、

それでいいのかもしれないと思った。

フェミニズムは、多分色々な分野にその手を広げてると思う。

独り立ちした、遠い存在のものじゃない

 

職業や経済だけでなく、言語や芸術もスポーツも、、 

何か自分の角度から、

フェミニズムについて少し触れてみることも、

フェミニズムを知るための最初の、

でも十分な一歩だと思う。

 

 

それを教えてくれた

トークセッションでした。

 

 

 

20分だけの、出会い

 

大学院のことだったり

言語のことだったり

少し固いお話が多かったから

肩の力を抜いたお話を。

 

 

昨日のこと。

 

私はよくカフェで

課題をしたり論文を書いたりすることが多い。

 

少しの音も無い図書館の自習スペースより、

人のおしゃべりの声が聞こえたり

パソコン作業する音が聞こえたりと

少しだけ雑音がある方が、

私はなんとなく心地よく、集中できるからだ。

 

昨日も同じように、コーヒーショップで作業することにした。

 

私は勉強が捗りそうなスポットを探すまで、

こだわりがある人で、少し時間がかかる。

 

座席の位置が落ち着いたところにあったり、

照明が良かったり、

なんだか眺めが良かったり、

くだらない理由だけど、

「よし、ここだ」っていう場所があるまで、

一通り歩き回って探したり、

狙いを定めて、その椅子が空くのをちょっと待ったりする。

 

 

平日お昼の新宿のスターバックス

思っていたより混んでいたけれど、

窓際の、一番角の、

2人掛けの丸テーブルを見つけた。

いい感じ。集中できそうだ。

 

コーヒーを注文して、

論文を書き始めた。

 

40分くらいして、

頭もちょうどよく集中していたとき。

 

パソコンに集中している視界の脇から

近づいてくる人の気配がした。

 

ふと顔をあげると、

中年の女性がひとり、

何か話しながら私のもとに歩いてくる。

 

「ん?」という表情でその人に返しながら、

かけていたイヤフォンを耳から外した。

 

女性はもう一度口を開いた。

 

「この席、相席、いい?」

 

 

ん、えっと、?

 

私は、少し戸惑った。

近所の居酒屋ならまだしも、

新宿のスターバックス

作業もちょうどはかどってきた時に。

 

そして何より、

他にも同じ類いの二人掛けに座るひとり客がたくさんいるのに、

なぜよりによって私。

 

隣と、前の席のひとり客も

それぞれ驚いたようにこちらを見た。

目があって少し恥ずかしかったけれど、

 

確かに、一人客が集まる大きな団体テーブルも

席は埋まっているし、

 

「大丈夫ですよ。」

 

向かいの席に置いていた自分の鞄を

自分の背中の後ろに置き、

丸テーブルに広がっていた文献や本をまとめて、

私はその人に席を空けた。

 

「ごめんなさいねぇ、ありがとう。」

 

女性は席に座って、何事もないかのように

コーヒーを飲み、チーズケーキを食べ始めた。

 

 

私はパソコンに目を向け直して、

論文作業に戻った。

 

そこから10分ほど、

文献とパソコン、交互に目をやりながら、

私は続けて作業をした。

 

パソコンの向こう側になにげなく目をやると、

女性はまだ、美味しそうにゆっくりとチーズケーキを食べていた。

 

無言でパソコンを打つ私と向かい合って、

60cm向こうでチーズケーキを食べる、知らない女性。

それを客観的に考えるとなんだか滑稽になって、

心の中で、クスッと笑ってしまった。

 

 

私は、

目線をキーボードからはっきりと彼女に移した。

 

 

「今日は、お買い物ですか?」

 

 

いきなり私に話しかけられた女性は、

少し驚いていたけれど、

とても笑顔で、

もはや「よくぞ聞いてくれました」というように、

答えてくれた。

 

「今日、息子のボクシングのデビュー戦なんです。

私、静岡から来たんですけど、もうドキドキしちゃって。

試合より随分前に着いちゃったのよ。」

 

 

さっきの隣のお客も、

ついに相席同士の二人が話始めたことに驚いたのか、

はたまたこの女性の話の内容に驚いたのか、

またこちら側に目線を向けた。

 

私は続けた。

「ボクシングですか!新宿で試合があるんですか?」

 

「そうなの、新宿で。

息子は金融の仕事をしてたんだけど、退職して。

だからとっても遅咲きなんだけど、とうとうデビュー戦なのよ。」

 

「そうですか、ボクシング一本でやってらっしゃるんですね!

それはお母様も、緊張してしまいますね。」

 

 

女性がスマートフォンに目を向けたので、

私もまた、パソコンに目を向けて作業を始めようとした。

 

 

「ほら、これ。」

 

パソコン画面の上に重ねてくるように、

向こう側から携帯画面で見せてくれたのは、

息子が両方の拳をあげてポーズをする

タイトルマッチのポスターだった。

 

 

私のために画像を検索したのだと思うと

なんだか私にも笑みが浮かんだ。

 

私は、とうとうパソコンをゆっくり閉めた。

 

 

「バキバキじゃないですか!笑」

 

私たちはけたけたと笑った。

 

そこから彼女は、

息子さんの話や、

静岡にある景色がいい場所のお話、

最近おばあちゃんになった話(ボクサーのお姉さんにあたる人がお母さんになった)

色々と話してくれた。

 

 

飯田橋はどこにありますか?」

と、聞いてきてくれたので、

 

「新宿から一本ですよ、すぐです。

総武線っていう黄色の各駅停車に乗れば大丈夫です。」

 

二人で乗り換え検索を調べると

新宿からは、11分とあった。

 

試合からはまだまだ時間があるので

人に会ってくると女性は言い、

 

「じゃあその黄色の電車、乗っていけばいいのよね。」

 

「大丈夫ですよ。」

 

「どうも、色々話聞いてくださってありがとう。」

 

女性は、食べ終わったチーズケーキのお皿を持って席をたち

小さく会釈してお店からでていった。

 

女性が私のテーブルにいた時間は、

ほんの20分ほどだったと思う。

 

私は、なんだかその20分がとても楽しかった。

その20分、自分の作業は進まなかったかもしれないけれど、

すごく有意義な時間を過ごした気がした。

 

息子さんの試合まで気持ちがそわそわして

ひとりでいられなかっただけかもしれないけれど、

名前も知らない私なのに、

楽しそうに話してくれた女性を見ながら

出会いの不思議を感じて、

とてもあたたかい気分になった。

 

これだからやっぱり、

自習室よりもカフェが好きになってしまう。

 

 

息子さん、

デビュー戦初勝利してますように。

 

 

私が考える「学問の世界」

 

 

 

 

最近はとうとう就活をする身になってしまって、

腕を通すのを避けて通ってきたあのスーツを着ながら

考えることも多いけれど



考えてしまうことも

今しか出来ないことと思って

ひとつの愉しみにすることにした。

 

 



これは就活を経験したひとは

誰もが思うことかもしれないけれど、



街を歩くたびにどこかのコーヒーのCMみたいに

この世界は本当に誰かの仕事で出来てるんだって実感する。

 

 

 

朝通るマツモトキヨシには

開店前にレジ開けてる店員さんがいて

搬入する人がいて、

開けてるレジも

搬入してるダンボールも

その中に入ってる商品も

商品のデザインも、、

 

ってキリがないけど全て

作ってる、造ってる、創ってる人がいると思うと、

なんだか、コンクリートの道路でさえ

踏みしめて歩かなきゃと思ってしまう。

 

 

どれもどれも

なくてはいけない

重大な役割を持っている

お仕事なのだなと

身を持って実感する。

 

必要とされるものだし、

必要とされるから存在するお仕事なのだし

 

 

需要と供給のバランスは

この社会のどこにでも必要で

需要のあることを供給するのは

当たり前のことで、

 

需要を考えることが出来たら

必要としてる誰かを想って

それに応えたいと思ったら

それを仕事にするものなのかもしれない。

 

 

当たり前のことなのかもしれないけど

改めて考えた。

 

 

 

 

 

必要としてる人が目の前にいることを知っていて

供給をすることはとっても大切で、

 

 

 

でも、

直接は見えないけど

これを必要とする人がきっと絶対にどこかにいる

って思いながら自分の役割を見つけて

供給をしようとする信念を持つことも、

一つのケースなのかもしれない。

 

 

 

役割

 

 

 

 

大学院の中にいる自分の役割を考えてみた。

自分にとってはだいぶツボで

とっても楽しい大学院だけど

 

社会の中での自分の役割は一体何か

少し考えてみた。




 

大学院なんかで研究をしてると

日々そう思う。

自分の考えてることが

研究してることが

長い目で見ていつでもいいから

いつの日か

絶対に役に立つ。

 

 

って思ってないと

正直やってられないようなとこもある。

 



自分が熱を持ってやってることで

やっててすごく楽しいこと。

 

でも他人から見たらちいさなことで

何でもないんだななんて

そんなことを思い始めたらめげそうだ。



大学だったり

大学院だったりは

社会からは切り離されてる場所。



だから、そこにいるだけじゃ

需要を肌では感じられない。

 

あっち側の世界で

良かったって思う人がどうかいてほしい。

必要とする人がいてほしい。





ふと、

この前小説を読んでいた時に

言葉をみながら

小説のすごさを実感してた。

 

なにがすごいって

当たり前のことかもしれないけど、

全部が文字で書いてあることだ。




ふとした瞬間なぜか思いに耽りたい気分になったり

急になんだかやる気が出てきたり

ぱって嗅いだ匂いがなぜか懐かしかったり

急に見えた景色にあああって思ったり

そういうよく分からない

感覚みたいなふわふわしたものを

 

文字に書いて

可視化して具体化してること

それがすごいと思った。




もやもやっとしたものに

枠をつけている感じ。




なんだかそれが

大学とか大学院とか

研究する人達がやることと

似てるんじゃないかと思った。



経験はしたことあるけど、

なんか感じたことはあるけど、

でもこれがなんなのかは分からない、

みたいなものに

文字とか数字を与えて

名付けちゃったりもして。



それってこういうもの

なんですよ。

っていうところ。



モヤモヤしたものに

定義をつけるところ

なんじゃないかと思ったりする。



いや、もやもやしたままで

面白いじゃないかって言われたら

それはそうなのかも知れないけれど。




例えば

お醤油の香りだって

それがお醤油の香りだって

誰も言ってくれなかったら

くんくん、なんか香る、、

で終わっちゃうかもしれないけど

それがお醤油の香りだって

定義付けしてもらえただけで

急になんだか幸せな香りになる。



おこげだって、

おこげなんていう概念が世の中になかったら

わざわざおしゃもじでごはんの底を

ちらって見ようなんて思わない。

でも、おこげって名付けてあげるだけで

ごはんがお釜に接してちょっと焦げた部分が

急に贅沢な気分にしてくれる。



(なんかもうちょっと可愛い例が

見つからなかったのかなって残念だけど。)



私だったらそれが例えば

英語になるわけで。



英語って今の世の中大事だと思う、

いや、日本に居たら普通にいらなくない?

英語ってアメリカとイギリス人が話すやつ?

いや、私たちも話すことない?

待って、めっちゃ発音アメリカンやんかっこよ

えっそうかな、かっこいいとかあるの?

とか、みんなみんな英語のこと

いろんな風に考えてて、

 

それはみんなが色んな

「言語意識」を持ってることと一緒って思ったら

 

おお

これは、意識なのか!って、

みんなただ受け身になって

英語を受け入れてるんじゃなくて、

しっかり能動的に意識を持って言語に向き合ってる

すごいことな気がしてくる。

 

文法を文法書の答え通り並べたり

人称を教科書の例文通り使えたり

発音が付属のCDみたいに話せたり

それが出来ても

なぜかそれを実際の場面で使えない人がいる。

逆にそれが出来なくても

なぜかお友達が出来る人がいる。

前者に「言語能力」

後者に「言語運用力」

って付いてたら、

 

何かが出来る出来ないって

引き算で考えるんじゃなくて、

どちらかの力がどちかよりも長けてるって

足し算に考えれる気がしてくる。




そんな風に

 

目に見えないものを

見えるようにしてみたり、

説明できないものを

説明できるようにしてみたり、



元々そこにあることを知ってはいたけれど、

見えなかったものが

はっきり見えるようになったら

 

その分頭の中で新しい概念が足される。

で新しい概念を知れたら

その分世界が広がった気がする。

 

でその広がった世界から

また次の他の世界に繋がったりする。



ごはんがお釜に接してちょっと焦げた部分が

「おこげ」って知ったら、

ちょっと贅沢な気分になって

そしたらそのちょっと贅沢な気分にお家でもなるために

「おこげの簡単作り方レシピ」が

インターネット上で出てきて、

「おこげが出来る炊飯器」が

家電市場に出てくる。



こんな具合にほかの全然関係なかったはずの世界にも

色々つながっていく。



なんだか一周回ってまた

需要と供給の話に繋がりそうだ。




そんな感じで

少しでも

私たちが、ふーんとただ見てる人生の一部を

しっかり見えるようにして

そしたら

面白いスパイスになるかな。






そんな風に役に立ててたらいいな




 

かましくも

思っています。






こっち側の世界より。



あえてスベる英語

 

 

 

 

4月から英語教育の専攻なので

英語の話から

 

 

 

 

 

最近グーグルアシスタントがすごく進化したっていう記事(動画)を

Facebookで見た。

 

 

グーグルアシスタントの紹介ビデオ

 

 

 

グーグルアシスタントが

美容院とかレストランに直接電話をかけて

予約をしてくれるのだけど

全く機械が話してるように聞こえなくて

相手の対応に本当に自然に即座に返答ができる。

英語も単語単語で区切られているとかロボットっぽいこともなく

普通に人間と会話が出来てしまっている

 

 

 

 

なんかもう

もはや将来は人と人との会話がなくなっちゃいそうな気分になる

 

 

 

 

 

でもそれよりも、私は、そのグーグルアシスタントの威力を見て

人同士の会話がなくなる前に、

 

人同士の英語での会話がなくなる日は

いつか訪れる気がしてしまった

 

 

 

 

観光の場でも、ビジネスの場でも

違う言語の人達が混じりあう時はもっともっと増えるはず

 

 

ロボットがあそこまでに自然に話せるのなら

 

お互いに機械を持って、

その場で、母語で言いたいことを吹き込んで

はい、って相手に聞いてもらえれば

あまりにも普通に会話が出来てしまう

 

(実際私はもう卒業旅行で行った韓国で、

空港で借りた翻訳機を使って同じようなことをしてしまった。

けどグーグルアシスタントはその翻訳機よりももっともっと

人間の口語に酷似して話せる)

 

 

 

 

会話に必要な要素

例えば、アイコンコンタクトとか表情。

本人達はその場に居るわけだから、

相手にそれは汲みとってもらえるし伝わる

 

 

 

 

ちょっと専門的になってみて(大学院デビューしたので)、、

「コミュニケーション能力」には4つ要素が主にある

 

 

1文法能力(文法、語彙、構造とかが正しい能力)

2談話能力(ちゃんと意味を持つように文と文を繋げて話す能力)

3社会文化的能力(その場の文脈を読んで適切に話す能力)

4戦略的言語能力(コミュニケーションで問題がある時に対処する力)

Canale and Swain (1980)

 

 

 

 

たぶんグーグルアシスタントにも

相当なコミュニケーション能力がありそうだ

 

 

 

英語を使ったコミュニケーションを

グーグルアシスタントがしたら、、

 

 

 

 

とりあえずまず1つ目の文法能力は絶対にあるはず

文法も語順も正しく言ってくれるに違いない

(“正しい英語”の話は一つ前の記事で話したばかりだけど)

 

 

文脈を読みながら、文章同士をちゃんと意味があるように

繋げて発話する2つ目の談話能力も、持ってそうだ

(翻訳機能としてグーグルアシスタントを使うのであれば

母語を話す人に談話能力があれば、クリアしている)

 

 

3つ目の社会文化能力は、その状況によって適切な態度、考え方、

相手との距離感とか地位関係を理解して話せる能力

今までなら、「ロボットはそれが出来ないんだよ」と

私は言っていたけれど、

この動画を見て、そういう能力をもったアシスタントさんも

グーグルは開発してしまいそうだと思った

 

 

 

 

そして4つ目の戦略的言語能力

 

これは、「会話のつまづき」を突破しようとする能力(p.139)、

例えば分からない・知らない単語があったときに

簡単な言葉や別の言葉に言い換えたり、

その単語を分かりやすく説明するよう能力

(この前ちょうど友達が、単語をど忘れして

「ほら、あのーなんだっけ、マドレーヌの相方みたいなの。」

ってフィナンシェを説明してた能力と同じだ思う)

 

あとは、コミュニケーションに対する意欲、

会話の間を持たせようとしたりする気持ち(p.139)

全然文脈のない違う話をふったりとか、、

 

こういうものを戦略的言語能力っていうみたい。

 

 

 

 

 

グーグルアシスタントは戦略的能力を持っているだろうか

 

 

それはすこし疑問。

 

 

なぜなら、第一に完璧に英語ができるから。

 

 

(グーグルアシスタントは

たぶんまずフィナンシェって言う言葉を忘れる事自体しない)

 

 

 

 

 

問題なく英語が出来て

十分な語彙があって、綺麗に英語が話せて、、、

 

 

 

 

 

 

便利だけれど、

でもそれはあまり面白くない気がしてしまう

 

 

 

 

 

 

 

話がずれるけれど

 

私はいつもますだおかだの岡田をみると

一周回って凄いなぁと思う。

面白いことを言うことも絶対に難しいことだけど

わざとスベることも絶対に難しいと思うから。

 

みんなが認める王道の面白いことを言うのをやめて

あの絶妙なラインで滑って逆に自分のキャラクターを

確立してることもだいぶすごい技だと思うのだ

 

 

 

 

 

 

綺麗で隙のない正解の英語を話すのもいいけれど、

隙がありありの英語のほうが

人間らしい

私は日本語ですら隙がありあり

 

 

 

 

 

みんなが認める王道の英語を話す力も大事なのかもしれないけれど

 

近い未来にそれを達成してくれる人間以外の存在が

出てきてしまうのだとすれば

 

 

語彙が出てこなくても、

簡単な言い方しか思いつかなくても

間を持たせようと突拍子もないこといっても

 

 

 

人間の私達は、

あえて「すべる」岡田的イングリッシュを

目指して、英語に色んな色を持たせるしか

「人間しか話せない英語」を狙って行くしか

道がなくなってきそうな気がする

 

 

 

 

もし私が友達と日本語で会話してて

言い間違えも、

変な間も正しい間も、

「いやどういうこと」って聞き返されることも、

「えっ今のは引く」って微妙な反応されることも

「いやそんな単語が思いつかなかったんかい!」ってつっこまれる事も

「いや唐突すぎだから」って怒られる事も

なにもなくなってしまったら寂しい。

 

 

 

 

 

世界中にお友達ができることがよくある時代

英語で人と話すときだって

同じ事だと思う。

 

 

 

 

 

 

うん。

グーグルアシスタントだったら

真面目なコミュニケーション能力の話の最中に

いきなりますだおかだの話もしないはず。

 

 

 

 

 

 

参考文献 佐々木ゆり(2007)「コミュニケーション能力」を考える:日本が目指すこれからの英語教育と変わりゆく指導者の役割. 宮城教育大学紀要. 42. pp.137-144

New York「光と影」

 

この一年

自分の変化した事と

後悔していることを

ちょっと考えていた

 

 

私はたぶん前よりも人が好きになった

 

心をオープンに人と関わって

相手と繋がろうという気持ちが強くなった

 

一人っ子だからなのか私は

自分の時間を持つのが得意で

一人で過ごしていても全く苦じゃない

 

でもそれを言い訳に

良くないと分かっていながら

連絡が疎遠になっていたり

連絡が無愛想になっていたりした人が大勢いる

 

感謝の気持ち、嬉しさ、楽しさ、

怒り、寂しさ、悲しさ

色んな気持ちを

表に出して人とシェアすることに

怠惰になっていた

 

誰かに分かってもらえばいいと思ったし

言わなくてもわかったり

阿吽の呼吸で理解し合えたりする仲ばかりに

頼っていた

 

 

図工が好きだし、お菓子作るのが好きだし

指先は器用だけど

とっても大事なところが不器用だった

 

 

色んな人と会って

全然違うバックグラウンドの人々を見て、出会って

 

傍観者としてこの人達を見るのではなくて

この人達に私の人生に入ってほしいし

この人達の人生にちょっとお邪魔したいと思った

人との繋がりをもっともっと

大切にしたいと思った

 

 

自分が一番変わった事

忘れたくないしこれからも忘れちゃいけないと

思ったから書いておく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悔いなく過ごせたと胸が張れる1年だったけど

たったひとつ後悔したことがある

 

人の写真をあまり撮らなかった事

 

食べ物とか町並みとかそういうものばかり撮りすぎて

そこで過ごす人達を撮らなかったこと

 

友達と写真を撮る時は

カメラがあると意識しているし

にこってポーズとっちゃうし

 

そうでなくて

その街に過ごす人達の一瞬みたいなものを

ちゃんと撮っていても良かったと思った

 

 

 

ニューヨークで人を見るのがとても好き

 

 

 

Times Squareで舞台を楽しむ観光客が居れば

その舞台に必死に立とうと訓練したり

立てても稼げなくてレストランでサーブする人がいる

Upper Eastでお洒落なマダムが居れば

Upper Eastでそのお洒落なマダムの犬を散歩させている

お手伝いさんがいる

Grand Centralまでは多い、スーツに革靴の人も

Queensに入ればジーンズにスニーカーになる

ちょっと汚くて魚臭いChinatownで

がやがやとパワフルに売り買いする人がいて

そのパワフルさに負けそうになっても

活気に溢れるLittle Italyで美味しいピザを楽しむ人々がいる

Brooklyn heightsでお洒落にブランチを食べる人

夜遅くのWilliams bergでスライスピザをつまむ人

SOHO spring street駅では色んな国からの観光客で一杯の6番線も

100丁目を超えれば乗っている人の肌の色はどんどん濃くなる

 

電車には仕事や学校に行く人々もいれば

コインとその日のごはんを分けてほしいと缶持って車両を歩く

ホームレスがいる

 

きらびやかな街の表と裏側みたいな

なんか生々しく切ない人々の生活

 

そこに住む人々達は当たり前だけどそこに現実があって

それぞれ一生懸命過ごしてる

 

ニューヨーク人を見るのがとっても好きだった

 

 

それで

 

Upper Westには老舗のスーパーで

お洒落にお惣菜を買う人もいれば

Upper Westには東京からの1年交換留学で来た

ただの大学生で今日の飛行機で帰国する前に

まとめのブログをこうやって書いてる学生がいました

 

 

 

っていうお話

 

 

おわり

英語、ペラペラってなに?

 

 

「2回留学?あじゃあもう英語はペラペラな感じですね?」

 

 

感謝しなければいけないことに

人生で2回も長期留学に行かせてもらっている私が

 

 

よく遭遇する他人からの反応だ

 

 

 

この反応を受けるたびに困ってしまう

 

 

 

私には英語がペラペラの定義が分からない

 

 

 

どうなると人は「英語ペラペラ」の称号が

与えられるのか分からない

 

 

 

 

 

文法だったり構文だったりがしっかりしている事?

でもこう耳にする時もある

 

「ネイティブなんて文法は気にしないよ

以外にくちゃくちゃだったりするよ」

 

確かに私の高校留学のホストママは

She haveとかたまに言ってたから

そうなのかもしれない

 

 

 

 

 

「どうやったら発音よく話せるの?」

と聞かれることがある

 

(帰国生でもなんでもないし

日本語アクセントがもちろんある私だけれど、

発音の勉強などHigh School Musicalかプラダを着た悪魔

あほみたいに繰り返し見た時だけの超一般人な私だけれど、

底辺の『発音がいい群』に入る時があるみたいだ)

 

 

 

 

「ネイティブは文法など気にしない」

「英語の発音が良い」

 

 

 

私はまた困ってしまう

 

 

 

 

そしたら英語が出来るということは

ネイティブみたいになることなのか

 

 

 

 

英語がペラペラとは

そういうことなのか

 

 

 

結論から言うと

私は英語がペラペラではない

 

 

 

そして

「英語がペラペラ」になろうとも思わない

 

 

 

 

 

なぜ英語がペラペラではないか

 

 

 

人と会話が出来ないわけではないし

買い物が出来ないわけではない

エッセイが書けないわけでもない(ヒーヒー言ってるけど)

 

 

 

でも私は自分の中の思考を

完全に表現することが出来ない

 

 

 

日本人として日本人の脳と心を持った人間として

めぐるめぐる考えと

生まれる言葉を

ちゃんと変換出来るだけの能力を

持ち合わせていない

 

 

 

 

 

ちょうど今は季節の変わり目で

ぽかぽかで、木には葉っぱが生えてきて

緑色がとっても映えて美しくて

木漏れ日がすごく綺麗で

そんな街をわくわく歩きながら

行き交う人々を見ながら

あーでもないこーでもないと想像して

ずっと住んでみたかった街に今居る事に

心がざわざわして

あと1ヶ月だって気付いて

きゅーんとして

同じ景色が切なく映る

 

 

 

 

こんな綺麗な情景も

繊細な色も

ざわつく街も

忙しく変わる感情も

 

私には表現するだけのボキャブラリーも他のスキルもない

ニュアンスさえ伝えられない

 

 

 

 

英語がネイティブみたいに話せても

(ネイティブというのも難しいけど例えばアメリカに住むいわゆる西欧系の

英語しか話さない人達だとして)

ネイティブが気にしないと言われる文法が完璧でも

つっかかることなく文章がスムーズに言えても

 

 

 

こんな大事な

人間の中心みたいな部分が

上手に表現出来ないのだったら

きっと意味がないのだと思う

 

 

 

人間の中身の部分

日本人として育ってきた人間の中身の部分

 

 

せっかく日本人が話している英語なのに

そこが表現できなかったら

面白くない

 

 

 

 

いくら「英語がペラペラ」でも

中身のない「ペラペラな英語」になってしまう

 

 

 

 

そんな英語の集合体が

世界にたくさんあっても

私は魅力的だとは思わない

 

 

この国の人から出てくる英語

この国の人しか話せない英語

そんな英語が点在する世界になったら

きっともっと楽しい

 

 

 

 

 

 

英語がペラペラで

ペラペラな英語を話す人か

 

英語がペラペラじゃなくても

ペラペラじゃない英語を話す人か

 

 

 

私だったらぜったい後者になりたい

 

 

 

日本人らしい英語を話したい

 

 

 

 

そのために英語を勉強するんだ

 

 

 

 

 

ってロマンチックに語ってみたけど

つい3日前

エッセイの文法いっぱいお直しくらったばっかり

 

 

 

 

 

 

 

非現実的って言われるかもしれないけど

でもいいじゃんね

たまには、英語の明るい未来をロマンチックに

語るのも